注意: ここでいう「おじさん」は年齢でも性別でもない. おばさんも若者も含む. なんなら自分の中にもたまにいる. これは属性ではなく,議論中に発生する態度の名前である.

私は「要はバランス」という言葉があまり好きではない.

もちろん,バランスそのものが嫌いなわけではない. 品質と速度,自由と規律,安全性と機動力,理想と現実. この手の議論は,だいたい最後にはバランスへ行き着く.

だからこそ,議論の途中で「要はバランス」と言うことは,多くの場合,何も言っていないに等しい.

料理中の人に「要は火加減」と言うようなものだ. 正しい. 正しすぎる. そして,誰の手元も一ミリも助けていない.

強火なのか弱火なのか. 今なのか後なのか. 焦げ目をつけたいのか,中まで火を通したいのか. そこを話している最中に「要は火加減」と言われても,こちらは「はい」としか言えない. そして「はい」と言った瞬間に,議論だけが死ぬ.

主張がないなら,主張がないと言えばいい

主張を持っていないこと自体は悪くない.

情報が足りないなら「情報が足りない」と言えばいい. 判断基準が見えていないなら「判断基準が見えていない」と言えばいい. まだ考えられていないなら「私はまだ主張を持てない」と言えばいい.

それは誠実である.

しかし,主張がないことを「自分は一段上から客観的に見えている」というポーズに変換し始めると,話が変わる.

両サイドを冷笑し, 「まあまあ,みんな熱くならずに」と言い, あたかも自分だけが大人であるかのように振る舞う.

これは中立ではない. かなり濃いめのエゴである.

ポライトな見下しは,見下しである. 砂糖をまぶした毒は,お菓子売り場に置くと余計に危ない.

意見を言えないことと中立は違う

ここは強調しておきたい.

意見を言うことができないこと と,中立的であること は違う.

知識が足りない. 責任を持てない. 場の力学が怖い. まだ言語化できない. そういう理由で,意見を言えない瞬間はある.

それは状態である. 限界である. 人間なので普通にある.

しかし,中立は状態ではなく立場である. 両側の主張を見た上で,いまは判断を保留する. 論点を整理する. 判断に必要な情報を分ける. そういう役割を引き受けることだ.

意見を言えないことを,中立であるかのように扱ってはいけない. それは「まだ立場を置けない」を,「私は両側を超越している」にすり替える行為である.

このすり替えが起きると,無主張がなぜか道徳的優位になる. 議論に参加している人たちが未熟で,自分だけが成熟しているように見える.

それは中立ではない. 参加できていないことのラッピングである.

議論は喧嘩ではない

「要はバランスおじさん」は,しばしば議論を喧嘩として見る.

Aさんが強く言う. Bさんも強く返す. 反例が出る. 前提が掘られる. 論点が増える.

すると,その場を「荒れている」と見て,止めに入る.

もちろん,人格攻撃やハラスメントが起きているなら止めた方がよい. それは議論ではなく,人が壊れる方向へ進んでいるだけだからだ.

しかし,意見がぶつかっていること自体は悪ではない. むしろ,両サイドがきちんと主張を出し合うことで,初めて見える地形がある.

速度を重く見る人がいる. 安全性を重く見る人がいる. 運用コストを言う人がいる. ユーザー影響を言う人がいる.

この状態は,単に「対立している」のではない. 論点の地図が増えている. 価値の軸が見えてきている. 議論が深まるとは,たぶんこういうことだ.

そこで「要はバランス」と言って止めてしまうと,せっかく生えかけた軸が折れる. あとには,何となく大人っぽい空気だけが残る.

その空気は議事録に書けない. 実装にも設計にも意思決定にも使えない. だが本人の自己像だけは少し温まる.

省エネ暖房としては優秀かもしれない. 世界への貢献としてはかなり怪しい.

「両方大事」は入口であって出口ではない

「両方大事」も同じだ.

もちろん両方大事なのだ. 大事だから議論している. 片方がどうでもいいなら,そもそも議論にならない.

重要なのは,そこから先である.

  • 今回はどちらを優先するのか

  • どの条件なら優先順位が反転するのか

  • 誰がそのコストを払うのか

  • 失敗したとき,どちらの失敗の方が回復しやすいのか

  • 原則の話なのか,今回だけの例外なのか

この粒度まで降りて初めて,「バランス」は作業になる. それ以前の「両方大事」は,ただの入場券である. 入場券を握りしめてステージ中央に立たれても困る. ライブはまだ始まっていない.

何かを選ぶとは,何かを選ばないことでもある. どちらかを重く見るとは,もう片方の不満を引き受けることでもある. バランスを取るとは,その負債の置き場所を決めることでもある.

それを言わない「バランス」は,かなり高級な無責任である.

止めるなら,理由を持て

議論を止めること自体が悪いわけではない.

時間がないこともある. 参加者が疲れていることもある. 前提情報が足りないこともある. 同じ論点を三周していることもある.

ただし,止めるなら理由を持つべきである.

今は判断材料が足りないので,ここで止めたい

論点が三つに分かれたので,いったん分解したい

このままだと人格評価に寄りそうなので,発話の対象を案に戻したい

こういう止め方なら,議論に貢献している. 議論を殺しているのではなく,次に進めるために形を変えている.

一方で,

要はバランスだよね

だけで止めるのは,結論のふりをした停止命令である.

しかも「バランス」は善良そうに見える. だから反論する側が,まるで過激派のように見える.

これはズルい. かなりズルい. そして本人にズルをしている自覚がないことが多い. その無自覚さまで含めて,厄介である.

結論

私が嫌いなのは,バランスではない.

「要はバランス」という言葉が,主張しないための免罪符として使われることが嫌いなのだ.

主張する人は,間違えるリスクを負っている. 反論する人も,嫌われるリスクを負っている. 具体案を出す人は,具体的に批判されるリスクを負っている.

その横から,何も出さずに「要はバランス」とだけ言うのは,手ぶらで鍋パに来て「味って大事だよね」と言うようなものである.

大事だよ. 大事だから今みんなで作っているんだよ. せめてネギを切れ.

主張があるなら主張する. 整理するなら整理する. 止めるなら理由を持って止める. まだ主張がないなら,主張がないと言う.

議論は,冷やせば成熟するわけではない. 熱があるからこそ,出てくる形がある.

火傷しないようにはしたい. でも,火を見た瞬間に消火器を構える人だけで世界を運用すると,たぶん夕飯がずっと生で出てくる.